ワークショップをうまく運営するコツ(議論のまとめ方)

・ワークショップといえばポストイット

ワークショップでの議論とまとめというと、ポストイットなどのカードに個々人の意見を書いてもらい、KJ法的に共通する意見をグルーピングしていくという方法がよくみられます。人によってはワークショップとは、そのような道具をつかって議論することだと思っている方もいるようです。私自身は、この方法をできるだけ使わないように意識することにしています。というのは、参加者がカードに書いた言葉は非常に見づらいですし、四角いカードが並んでいくつかの共通項で枠取りされた成果物は美しくなく、豊かな創造性を感じさせない、そして根本的にはまちづくりの問題を言葉だけで語ることに限界があることなどの問題点が気になるからです。しかし、この方法は簡単ですし、発言の機会の平等化や、参加者同士の意見の共通性と違いを構造的かつ視覚的に明らかにするうえでは捨てがたいものがあります。ここではカード型KJ法的ワークショップを対象にしながら、議論をまとめていくうえでの留意点について私なりに感じていることを述べたいと思います。

・枠にはめたククリと、イキイキとしないまとめの言葉

第1には、参加者の発言をグルーピングする際の問題です。ありがちなのが、たとえば「道路に関する発言」とか、「公園に関する発言」とかいったように対象ごとにまとめるやり方です。これは頭を使わなくて良いので楽なのですが、参加者の発言のなかから課題や方向性を発見していこうとする際には不適切です。KJ法でも言われますが、直感的になにか関連性があると感じられるもの同士をグルーピングしていく努力をしてみましょう。グルーピングに対するまとめの言葉も重要です。これも経験的には「問題点」「解決の方向」といった体言止めの表現は、その後の議論の展開力を失わせるような気がします。そもそも、そのようなまとめの言葉になってしまうのは、グルーピング自体に問題があると言えますが、少なくとも「こんな問題が・・・」とか「こうすれば解決するかも」というように動きのある言葉を使うようにしましょう。体言止めのまとめは、なにかそこでもう議論がまとまってしまったかのような印象を与えるような気がします。発言のグルーピングは、議論を次のステップに導く手がかりを与えるもので結論とは異なります。

・「言葉」より「気持ち」-ユング心理学から学ぶ(その2)-

少し話はとびますが、ユング心理学の重要な概念に「自我(エゴ)」と「自己」があります。「自我はあくまで意識の中心であり、意識も無意識も含めた全体の中心として自己が浮かび上がってくる。自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものでなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する。」などと解説されますが、その「自我」を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を「自己実現」の過程と呼び人生の究極の目的としています。これから連想されるのは、自らの住んでいる町を良くしたいという気持ちは、具体的な表現としては「歩道をもっと広く」とか「○○施設をこのまちに」とかいった要求としてあらわれてきます。けれども、個人個人の心の中には子どもの頃からの身の回りの環境の記憶とか、強く気持ちの惹かれる風景の記憶とか、大切にしたい思い出と一緒になった情景の記憶とかが、無意識の中にたくさんつまっているはずです。それらの総体として「こんなまちになったら・・・」という漠然とした思いがあると考えられます。表層に現れてくる具体的な要求は必ずしも「こんなまちになったら・・・」という「像」を的確に表現しているとは限りません。「言葉」にとらわれるのではなく、「気持ち」に耳を傾ける必要があるのです。そうすることによって、一見言葉の上では対立しているように見えても、気持ちとしては同じものがあるということを発見できるかもしれません。ですから、発言のまとめの言葉もあまり断定的な印象を与えるものは避けた方がよいということになります。

・孤立した意見、意見の対立を大切に

それから、発言のまとめと結論は異なるという点で言えば、最大公約数的なまとめも場合によっては避けた方が良いと思います。多数の意見とは異なる「孤立した意見」や、「意見の対立」は無視せずに、そのまま残しておくようにしましょう。それは、一般論として少数意見を大切にしようと言っているわけではありません。極端なことをいうと最大公約数的なまとめの内容が、絶対的に正しいといえない場合があるからです。環境的問題ばかりでなく地域のコミュニティになにがしかの課題が存在するから、まちづくりワークショップなどの場づくりが必要になるわけです。地域の多くの人の考え方自体が地域の問題を生む根元になっている場合もあります。

・問題解決の力は地域にある

私は、地域の問題を解決する力は地域のなかにあると信じています。その力を引き出す手助けをするのが私の役割だと思っています。先に触れた「孤立した意見」や、「意見の対立」は地域の問題を解決する力の元となる可能性があるのです。こんな例もあります。地域の町内会の役員さんと子育て中のお母さんが同じテーブルで議論する機会がありました。町内会の役員さんが問題にしたのは、地域の公園に隣接する小さな森のことです。あまり人も行かないし暗く痴漢がでるなどの問題もあるので、木を切ってゲートボール場にでも整備すればいいという意見でした。一方、お母さんの方は公園の森のことはあまり関心がなく、子どもの非行などの問題を地域でどう取り組むかということを熱心に主張していました。議論はかみ合わないまま数回話しているうちに、子どもが非行などにはしる背景には地域で何かに夢中で取り組む対象、体験が無いからという意見が出されました。一方、公園の森に対しては日頃、人が立ち寄り自然と親しむきっかけがないのが問題と言うことになりました。そんななか、子ども達の自然観察会を公園の森で行い、子ども達の手作りの木の銘板を町内会の人と一緒にとりつけることをしてみようということになりました。これも、議論のまとめを急ぐと「森をゲートボール場に」と「子どもの非行問題」といったまったく別々の課題ということで終わってしまいます。「森をゲートボール場に」という主張も、ゲートボール場が欲しいという要求なのか、日頃人の行かない森を有効活用するのに例えばゲートボール場などがあるということなのか、「言葉」より「気持ち」に耳を傾けなければ問題の解決方向を間違えます。一人一人の発言のなかには、必ず問題の本質と解決方向について示唆する「種」や「芽」が必ずあると信じて、良く聞くことがほんとうに重要なのです。

・まとめたあとの議論ではじめてみえる本質

ワークショップでは、議論の時間に制約があるので、出された意見をとりあえずまとめるまでで終わることがありますが、ほんとうはそれから本質的な議論が始まるといえます。そのようなゆとりあるプログラムを組めるよう工夫する必要があります。とはいっても、どの時点でどのような本質的な議論の展開が生まれるかについては予測のつかないことがあります。とにかく当初のプログラム通りに進行することに重点を置くのか、議論の展開にゆるやかに対応する道を選ぶのかについては悩むところです。しかし、本質的な議論に到達して創造的な結論に至る体験をすると、どうしても後者の方を選択してみたくなります。参加者ももう少しつっこんだ議論や取り組みをしてみたいという欲求が生まれてくることがあります。いずれにしろ、まちづくりワークショップの本質は何なのか深く考えてみる必要がありそうです。